【後編】犬の膝蓋骨脱臼の手術治療〜滑車溝造溝術とTTTがスタンダードになった理由〜
前編では、膝蓋骨脱臼のグレード分類と、内科治療でできること・できないことについてお話ししました。今回は「手術」という選択肢について、当院で治療の基準としている術式を中心に詳しくご説明していきます。
なぜ「戻すだけ」の手術では不十分なのか
膝蓋骨脱臼の外科治療は、実はこの数十年でずいぶん考え方が変わってきた分野です。かつては、外れた膝蓋骨の周りの関節包や靭帯を縫い縮める「軟部組織の縫縮術」だけで済ませる術式が主流だった時期もありました。
しかし、この方法だけでは再発率が高いことが分かってきました。理由は単純で、膝蓋骨がずれる根本原因は、骨格そのもののねじれや配列のズレにあることが多いからです。糸で縫い縮めても、土台となる骨の形が変わっていなければ、時間が経つとまた同じように外れてしまう——これは人の膝蓋骨脱臼の治療の歴史とも共通する教訓です。
そこで現在では、「骨格のズレそのものを矯正する」骨性の手術が中心になっています。当院で標準としているのは、滑車溝造溝術と**脛骨粗面転位術(TTT)**を組み合わせる方法です。

滑車溝造溝術:お皿の「レール」を作り直す
滑車溝造溝術は、大腿骨の先端にある溝(滑車溝)を、膝蓋骨がしっかりとはまり込む深さに削り直す手術です。先天的に浅くなってしまっている溝を、骨や軟骨の性質を保ったまま人工的に深く形成し直すことで、膝蓋骨が正しいレールの上を動けるようにします。
いわば、脱線しやすい線路の溝を、車輪がぴったりはまる深さに掘り直すようなイメージです。
脛骨粗面転位術(TTT):引っ張る方向を正しく直す
一方でTTTは、膝蓋骨の下についている腱(膝蓋靭帯)が付着している脛骨側の骨の出っ張り(脛骨粗面)の位置を、正しい方向へ移動させて固定し直す手術です。
多くの症例では、大腿四頭筋から膝蓋骨、膝蓋靭帯、脛骨粗面へと続く「引っ張りのライン」自体が内側(または外側)に傾いてしまっています。このラインが曲がっていると、いくら滑車溝を深くしても、歩くたびに膝蓋骨は曲がったラインの方向へ引っ張られ続けてしまうのです。TTTでこの引っ張りの方向をまっすぐに直すことで、再発のリスクを大きく減らすことができます。
二つを組み合わせる意味
滑車溝造溝術が「お皿の通り道」を直す手術だとすれば、TTTは「お皿を引っ張る力の向き」を直す手術です。膝蓋骨脱臼は、この両方の要因が重なって起こっていることがほとんどのため、片方だけを直しても不十分なケースが少なくありません。
特にグレードIIIやIVのように、常に脱臼している状態が続いてきた子ほど、骨格側の変形も進んでいることが多く、この二つを組み合わせた手術が現在の標準的なアプローチとされています。

どんな子に手術を勧めるか
当院で手術をご提案するのは、主に以下のようなケースです。
- グレードIII・IVで、常に歩様異常がみられる
- グレードIIでも、脱臼の頻度が高く進行性である、あるいは若齢でこの先何年も同じ膝を使い続ける必要がある
- 前十字靭帯断裂を併発している、またはそのリスクが高いと判断される
ここで正直にお伝えしたいのですが、獣医師としての本音を言えば、私はもっと多くの子に手術という選択肢を選んでほしいと考えています。犬は本来、全力で走ることに大きな喜びと健康的な価値がある動物です。ずれた膝をかばいながら一生を過ごすのと、まっすぐな脚で思い切り走れるのとでは、その子のQOL(生活の質)に大きな差が出ると、日々の診療で感じています。

それでも内科治療が選ばれる理由、そこにある葛藤
とはいえ、手術には全身麻酔のリスク、数週間から数ヶ月にわたる安静とリハビリの期間、そして決して小さくない費用がかかります。ご家族の生活スタイルや経済的なご事情によって、内科治療を選ばれることが現実には多く、それは飼い主さんとして当然の、真っ当な判断だと思っています。
正直なところ、獣医師としてもっと手術のメリットを伝えきれず、内科治療を選ばれる背中を見送ることに、もどかしさを感じることもあります。ですが最終的にどちらを選ぶにしても、それぞれの治療の限界とメリットを正しく理解した上で決めていただきたい——それが、この前後編のブログを書いた一番の理由です。
術後の経過について
手術後は、骨がしっかり癒合するまでの数週間、ケージレストを中心とした安静期間が必要です。その後、獣医師の指示のもとで段階的に運動量を増やしていき、筋肉量を取り戻すためのリハビリを行います。個体差はありますが、多くの子は数ヶ月かけて元の元気な歩き方を取り戻していきます。
膝蓋骨脱臼は、決して「様子を見ればいいだけの病気」でも「必ず手術が必要な病気」でもありません。グレードや年齢、生活環境によって最適な選択は変わってきます。気になる歩き方がある場合は、まず一度ご相談いただき、今のわんちゃんの状態を正しく知ることから始めていただければと思います。